●ゴルフ解説者 岩田禎夫 第2回
2007.04.21
ゴルフ解説者 岩田禎夫 × フリーアナウンサー 田中美穂
湘南とヨット
田中
:ヨットを始めたきっかけは何だったんですか?
岩田
:やっぱりこの辺に住んでいたからでしょうね、海が近いから。
田中
:ヨットを見てて自分もやってみたいなって?
岩田
:そうそう。当時は海岸で貸しヨットっていうのが出ていて、最初のうちはその貸しヨットが精一杯だったんだけど、僕と兄貴、ほとんど金出したのは兄貴なんだけ ど、鵠沼にいる友達から電話がかかってきて「うちの隣にいる外人がアメリカに帰る、持っているヨットを安く売る」っていうんでね。当時1950年くらいかな、40年終わりくらいかな、1万5000円で買ったんですよ。
田中
:今でいうとどれくらいですか?
岩田
:当時の大学出の初任給くらい? まあそれを買ってA級ディンギーっていう一番初歩的なクラシックなヨットですけども…それが中学の終わりか高校入ったくらいかな。
田中
:普通にバイクに乗るくらいの感覚でおっしゃってますけども(普通じゃない)。
岩田
:だいたい3月の下旬から11月まで乗るんですよ、海岸に置いておいて海岸から出し入れしていたんだけど。今だったらそんなところに置いといたらすぐいたずらされちゃうんだけど、当時はのんびりしてたのかな。まあ、たまにはいたずらされましたけどもね。夏はいいんだけど3月とか11月とかは…出し入れするときに腰のあたりまでつからなくちゃいけないから。行きはいいんだけど帰って来たときに波に乗っちゃまずいわけ、タックして舳先を沖に向けてね。波が大きいときには舳先にひとりぶらさがって、シーアンカーの役目をして少しずつ入れるわけ。あとオールはかかせない、セイルを降ろしてオールで漕いできてあげるんです。
田中
:さっきのボートにいたずらってどんなことをされるんですか?
岩田
:もうみんな乗って揺らすんですよね。そうするとプランカーが緩んじゃって、ビスが緩んじゃって。
田中
:それって乗ったら分かるものなんですか?
岩田
:水がもっちゃうんだもの。だからしょっちゅう修理してましたよ。11月に揚げるでしょ、1ヶ月か2ヶ月干して置いて、2月いっぱいくらいまで干しておいて3月になると、手入れをはじめるんです。1ヶ月くらいかけてはがしてペイントを塗り替えて。その後、何台か乗り換えるんだけど、あのディンギーが何年乗ったかな、何回修理してもアカがとれなくなって…。(それを持っていったのがマースケなんだよ、我々の仲間のね。マースケとマースケの兄貴が乗っていたんだけど、そのときの僕が覚えている光景が、ひとりがセイリングしてひとりが水かきしているっていう(笑)。
田中
:じゃあもう50年近くヨットと関わっているわけですね。
岩田
:もう50年以上になるね。
田中
:ヨットの魅力ってなんでしょう?
岩田
:そりゃもう、乗っていて気持ちいいところと…女ですよね。
田中
:女?やっぱりモテるから?
岩田
:高校から大学に入って、夏にそういう遊び道具があると、もう面白いように女の子にモテる(笑)。
田中
:(笑)どうやって誘っていたんですか?
岩田
:ヨット乗らない? って声かければもう、だいたい乗りますよ。海でつるんじゃなくて丘でつるっていう(笑)。
田中
:丘でつって、海に連れてく、みたいな(笑)。
岩田
:昼間そうやってひっかけるわけでしょ。当時はね、この辺は会社の寮とかに普通の家を貸していていろんな会社の人たちがそこに来るじゃない。そういう女の子をひっかけてね、それから夕方一回帰ってから、夜また会おうよって約束して…それからあとはもう、相手次第ですよ(笑)。そんなことをやってましたね。
田中
:(笑)
岩田
:だからその当時、大学のころね。夏が終わってパアーっと秋風が吹くころになると、決まって熱が出るんだよね(笑)。40度くらいの。
田中
:(笑)知恵熱ですか?
岩田
:もう夏の疲れが出るんだろうね。
田中
:じゃあ今の生き生きとした岩田さんがあるのもそのころのおかげですね。いまの生き甲斐というか、楽しみはヨットなわけですね。どんな思い出がありますか?
岩田
:まあ、トランパックっていうのもロサンゼルスからの思い出だし、はじめてディンギーからクルーザーに乗り換えるのが1965年くらいかな。有名なヨットデザイナーの横山さんが設計した24フィートの2本マストのヨール。
田中
:それは今持ってらっしゃる船とは違うんですか?
岩田
:その後、32フィートが2艇、38フィートと乗り継いで、いまはクックソンの40フィートというかなりスピードの出る船に乗っています。
石原兄弟とトランパックレース
田中
:岩田さん、(石原)裕次郎さんとも何かあるとか?
岩田
:裕さん?裕さんとはね…ようするに慎太郎さんが年上にいて、下が裕さんでちょうど僕が真ん中だったんだよね。やっぱりヨット…ヨットを通じてなんだけれども。1965年にロサンゼルスからホノルルまでのヨットレース(トランパックレース)に出たわけ。それで乗ったのがコンテッツアー2世という船で、慎太郎さんと裕次郎さんの船なんですよ。そのクルーで乗ったときに、裕次郎さんと一緒だったの。まあそのへんから知り合ったんですけど…。このレースはね、裕次郎さんがスタートして翌日くらいから「腹が痛い! 俺、盲腸だ」って言い出して。段々痛くなるって言うわけ。それでクルーのひとりで僕よりちょっと年上の獣医さんの福吉さん…福吉ノブオさん、ノブオなんてよばないで「獣医」って呼ばれてたんだけど、(動物 相手の医学をやっていて、まあ最終的に獣医にはならなかったんだけど、)その人がね、ナントカ流っていうお灸ができる、お灸で散らすって言い出して (笑)。
田中
:本当ですか(笑)おなかにお灸を?
岩田
:それがまた面白いんだけどねえ。結局コースガードがいて…レース全体をガードするコースガードね。デクスターっていうんですけども、そこと連絡をしてね。ヨットレースって散らばっちゃうじゃないですか。だから来るけれどもすぐに直行するわけにも いかないと。だから症状なんかを言ってね、なるべく速くミーティングするように努力するって。だから交信を始めてから会うまでに3日ぐらいかかりました よ。今みたいにGPSなんかない時代ですから。ディレクション・ファインダーでしょ。あとはもうセクスタン(天体航法の六分儀:天体から緯度経度を調べる 測定器)でやるしかない…。あんな揺れた船の上でセクスタンなんかやっても出るもんじゃない。とんでもない位置が出たりするわけですよ。でもそれをやってたのが慎太郎さんなんだよ。それでちゃんとした位置が出なくて、後になってわかったんだけど肝心なデータをひとつ入れるのを忘れてたって。なんとかデクスターに会って裕次郎さ んが収容されるわけですよ。むこうからカッターが降りてきて「みんな元気で行けよ」ってね。かなり我々は悲壮な雰囲気でしたよ、直ってくれればいいなって ね。で、とにかくなんやかんやで12日間ぐらいかかってレースが終わってね。そうしたらさ、ワイキキ・ヨット・パークの岸壁の上に、裕次郎さんが真っ黒 になっているわけですよ。「おまえら何やってんだ! 遅いじゃねえか!」ってね。元気な姿でね。それも後からわかったことなんだけど、デクスターに乗り 移ってから軍医さんが診てくれてね。大丈夫だ、破裂する心配はまだないから熱いシャワーでもあびて一回寝なさい。それから手術するならしようってことに なってて。熟睡して起きたら痛みが消えてたっていうんだよ(笑)。
田中
:なるほど(笑)
岩田
:もうメンタルなものなんだろうね。盲腸じゃあなかったんだ。でもさ、盲腸なんか破裂したらやばいって思うじゃない。最初のうちは大丈夫だなんていってても、痛い痛い言いはじめると心配になっちゃて。でも裕さんは一眠りしたら元気になっちゃったっていうでしょう? 後はもうやることないもんだから、デクスターの甲板の上のデッキチェアでひなたぼっこしていたから真っ黒なんだよ。
田中
:すごいエピソードですね。1955年に石原慎太郎の小説「太陽の季節」が発表されてからトランパックレースまでは10年ぐらい経っているわけですが、岩田さんも「太陽族」だったんですか?
岩田
:うん。まあそういうことだね。
(
第3回に続く
)









