●日本画家 澁澤卿
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●字幕翻訳家 菊地浩司+アシスタント小玉展子(2008年8月1日 鎌倉自宅にて)
●日本画家 澁澤卿 第1回 画家になるまで
2008.09.02
お二人は共通の知人を介してゴルフを楽しむ仲。この日のお話もゴルフをきっかけに始まりました……
[画業30年間の原動力]
菊地:
初めてお会いしたのは3週間ほど前。ゴルフの調子はいかがですか?
澁澤:
いやいや。相変わらずだめですよ。行く時間もなかなかありません。
菊地:
忙しいんですね。
澁澤:
はい。もともとゴルフをしている暇はなかったのです。
生まれが団塊世代の末なんですね(昭和24年)。
菊地:
ほとんど同い年ですね。
澁澤:
画家という職業は、それまで食えない職業だったのですが、日本が高度経済成長の時代に入ってきて、だんだんと絵が売れるようになってきました。その走りのころに私らのすぐ上の先輩たちが一斉にばぁーっと売り出しちゃったものですから、私がデビューしたころにはたくさんの先輩が、すでに売れっ子作家の地位を確立していました。
前田青邸はじめ著名な画家たち200人ぐらいが画壇の上層部にいたかな。その人たちに追いつき追い越さなければいけないのです。
小玉:
200人ってものすごい数ですね!
澁澤:
はい。とにかく彼らより一枚でも多く絵を描き、展覧会を開催しなければいけなかったのです。体力に自身があったので、寝る時間をけずって30年間絵を描き続けてきました。ゴルフを練習する時間はありませんでした。最近になって老体に体力をつけるために以前よりゴルフをしていますが、うまくなるには努力がたりません。
[絵描きを選んだ理由―大叔父・和田三造の存在]
菊地:
画家もある意味で体力勝負の世界だということですね。すごい! よろしければ画家になった理由を聞かせていただけますか?
澁澤:
私の大叔父に和田三造という洋画家がいました。近代美術館に『南風』という有名な絵があります。若者が上半身裸で船に乗っていて、シャツをかざしている絵です。近代洋画の先駆けとして教科書にも出ています。
小学校四年生のときに、偉人を並べた世界人名事典を買わされたのですが、そこに和田三造が載っていましてね。ふだん私らとしゃべっている大叔父が事典に載っていることに、子供心に感動しました。
そこで大叔父のように歴史に残るような人物になろうと思ったのです。高校に入りそのためには政治家か科学者になるしかないと思ったのですが部活が忙しくて、勉強が遅れてきてしまって(笑)。
小玉:
部活では何をやっていたのですか?
澁澤:
学生時代はバレーボールに夢中でした。オリンピック選手を輩出するほどバレーボールに熱心な高校で練習は厳しかったです。
そんなわけで勉強が遅れてしまい、消去法で芸術家になろうととつじょ思い立ったのです。さっそく父と学校の先生に「芸大を受験します」と報告しました。
ところが父に「絵描きのような、食べていけない仕事を男はしてはいけない」と反対され、大叔父のところに相談しに行ったところ、大叔父は「デザインの勉強をしてから絵描きになりなさい。これからの時代はデザインの感覚が必要なのだ」と助言してくれました。父もデザインを勉強するのであればいいだろうと芸代受験を許してくれたのです。そのころはデザイナーといえば飛ぶ鳥を落とす勢いの花形の職業だったのです。
菊地:
芸大を出て広告会社でデザイナーというのは誰もがうらやむキャリアでしたね。
澁澤:
というわけで美術の勉強を始めたのは遅かったのです。
バレーボールの実業団のコーチをやりつつ、美大の予備校にも通いはじめたのですが、ちょっと絵を描いたらいい成績をとってしまったので、絵の勉強を甘く見てしまいました。受験に失敗してしまって二浪をすることになってしまいました。
小玉:
芸大入試といえば難しいことで有名ですよね。
澁澤:
予備校じゃだめだということで大叔父に相談して、紹介してもらった先生が、当時の芸大の助手だった大藪雅孝先生(現洋画家・芸大名誉教授)でした。そのときに一緒に勉強したのが、夭逝した天才画家の有元利夫、院展の宮廻正明、箕浦昇一(芸大教授)など今考えればすごい顔ぶれ。みな芸大の工芸科に進み、卒業後は電通などに就職していきました。
あのころは会社が学生確保のために菓子折をもって大学に来ました。ビジュアルデザインを専攻した卒業生は7〜8人しかいませんから完全な売り手市場でした。私の場合、やはりデザイナーを求めていた高島屋の宣伝部に就職することにしました。いちばん暇そうな会社だと言われて、即決でした(笑)。高島屋では最初から秘書が二人付いたんですよ。
(現場一同「えぇ〜!」とオドロキ)
[入社しても個展を開催!]
菊地:
入社しても絵は描き続けましたか?
澁澤:
はい。入社してすぐ個展を開催しました。芸大の成績はトップでした。トップの学生の場合、作品を文部省が買い上げるのが通例でしたが、私の作品はカーマスートラをテーマにしていましたから、買い取りを拒否されたのです。
菊地:
カーマスートラというのは古代インドの性愛の教典ですから、性描写がどうしても露骨ですが。
澁澤:
はい(笑)。あらゆる性技を文様風にあしらえたかわいらしい絵柄だったのですが、当時はまだそんなこと許されない時代だったのでしょう。教授会でも私の作品は問題になり、芸術ではないと拒否反応を示す教授がいたため、他の賞も逃してしまったのです。そこで私を支持してくれた教授たちが銀座のギャラリーで展覧会を企画してくれたのです。
デザイン科の学生っていうのは期待を裏切っておもしろいことをしてやろうって常に思っていました。例にもれず私もそうでした。そこで女体の拓本をとり(注:裸体に墨を塗って紙に転写)、それをもとにして性的にきわどい作品を制作しました(笑)。評判はものすごくよかったのですが、拒否反応もすごかったですね。「なにこれぇー!」って帰っていく女性も多かったです。おまわりさんも何度か来ましたよ! なんとか勘弁してもらいましたけど(笑)。
ただ3回、4回と続けていくにつれ、絵ってこういうものでいいのだろうかって自問するようになってきました。そうこうするうちにデザイナーとしての仕事が忙しくなってきました。中元や歳暮の時期はものすごく忙しく、絵を描く時間がなくなってきて、「絵描きになりたいので辞めさせてもらいます」と言って、ぽーんと会社をやめちゃいました。
( 第2回に続く )









